通りに面して店があり、奥に居住空間、そしてその間に通り土間や中庭が設けられ、風が吹き抜けるようになっている――それが江戸時代から続く「町家」建築だ。かつて京都の中心街は、そうした町家がずらりと並んでいた。だが、再開発などによって老朽化した町家は壊されてビルに建て替えられることが多く、伝統的な街並みは年々減少している。東急不動産と東急リゾーツ&ステイが2020年11月に開業したホテル「nol kyoto sanjo」(京都市中京区)は、そうした町家の表側をそのまま活用した、街の風景に溶け込むような隠れ家的なホテルだ。このホテルの企画段階から関わった、京都市在住の建築家、魚谷繁礼さんは、「日本の伝統的な木造工法はよくできています。風が通るので夏も快適でエアコンが必要ないほど。これからの省エネ建築には、町家がヒントになるかもしれません」と話す。伝統的な街並みを残すという文化的側面ばかりでなく実用性やサステナブルな暮らしを提案するうえでも、町家の保存・再生には意義がありそうだ。
町家の外観をそのまま活用
「nol kyoto sanjo」は、京都市営地下鉄烏丸線・東西線の「烏丸御池」駅から徒歩5分。観光拠点として便利であるうえ、比較的閑静な通りにある。京都・伏見の酒蔵「キンシ正宗」の京都支店だった町家を改修したもので、通りに面した部分は「キンシ正宗」の商号が掲げられているなどオリジナルのまま。奥の居室部分は新築だが、表側のエントランスやラウンジとなっている部分は町家をそっくり活用した情緒あふれる建物で、落ち着いた空間となっている。
「nol」とは、「naturally(自分らしく、自然体で)」「ordinarily(普段通り、暮らす様に過ごし)」「locally(その土地の日常に触れる)」の頭文字を取った造語。「A place to belong, just as you are.(ここは私が私らしくいられる場所)」というブランドタグラインを掲げ、旅先での日常に触れながら、自分の家で過ごしているかのような快適さを感じてもらう「自分らしく、普段通りに、その地域を楽しめるホテル」を目指す新たなブランドだ。
「年々減少している町家を残し、何とか活用できないか、そうしたことからこのホテルの企画が持ち上がりました」と企画開発を担当した東急不動産ホールディングスグループサステナビリティ推進部企画推進室の角田茉帆さんは語る。「古い建築物を改修して使おうとしても、建築基準法上の制約があります。そうした制約をクリアするには、古い建物を活かしてきた建築家の魚谷さんが適任ということで企画段階から参加してもらいました。そしてたまたまキンシ正宗の京都支店だったこの町家がみつかったのです。町家が少なくなっているのに加え、日本酒も若者離れで苦しい状況になっています。そこで、町家文化、日本酒文化の両方を解決する糸口になれば、と思いました。それは地域課題の解決を重視する東急不動産ホールディングスのグループの理念とも相通じるところがあります」と続けた。
nol kyoto sanjoがある京都三条は、中心街に近くて便利であるだけでなく、京都市民が普通に暮らしている街。さまざまな料理を楽しめるレストランやカフェなどが周りにたくさんある。角田さんは「この場所でどんなホテルが最適かを考えたとき、地域に住んでいる人と同じように過ごしてもらえれば、と思いました。地元のおいしい仕出し料理を部屋で楽しんだり、錦市場で買ってきた地元素材を部屋にあるキッチンで調理したり。そこで、ホテルにはなくてはならない場所と考えられていたレストランをあえて作らず、客室をゆったりと広く作ることにしました」と話す。ホテル開業は、新型コロナウイルスの感染が急拡大している時期と重なったが、角田さんは、「部屋の中に持ってきて、家族やパートナーと食事をする、という形は、コロナ禍の中の社会情勢とも実は合っていて、お客さまにも楽しんでいただけるポイントになったのかもしれません」と語る。
魚谷さんは、伝統的な日本の建物を再生する建築家の第一人者の一人。京都・祇園祭で巡行される山鉾の保管所である「会所」の「郭巨山会所」を担当、数少ない会所建築の遺構を残しつつ改修したことで、2023年の日本建築学会賞を受賞した。「約100年前の建物で、周りをビルに囲まれていました。建て替え計画が持ち上がりましたが、京都市から貴重な建築を残したいという話がありました。そこで、歴史的文化的価値がある『保存建築物』の指定を受け、特例として増築部分も含めて建築基準法適用除外としてもらいました。そのかわり、建築基準法と同等以上の安全性を確保しなくてはいけないので大変でしたが、100年たった建物を強くして、これから100年も200年も残っていくようにと考えました」と魚谷さんは話す。このnol kyoto sanjoについても「町家の良さを残しつつ、新たに活用する、それは僕の考えと非常に近いものがありました」と言う。
ホテルとして再生された建物は、キンシ正宗の京都支店として使われた後、奥の部分は壊されて駐車場になり、表部分の内部はイタリアンレストランとして使われていた。魚谷さんは、「外観は、オリジナルのまま残っています。これはこの建物が面している通りの記憶に残るものです。そのため、全く変えずに残すことを考えました。そして内部のレストランだったところは、骨組みを残して再構築。構造としての強度を高めました。日本の木造伝統工法というのは実はよくできた構造になっています。必ずしも鉄とコンクリートの建物の方が長持ちするとは限りません。何しろ日本の木造建築には、1000年を越えて残っているものもあるのですから。今は省エネというと高気密・高断熱一辺倒ですが、日本の伝統的木造建築は、小さく区切ることも広くすることも自在。エアコンがなくても風が通って気持ち良いように工夫されているのです。これからの省エネには、エアコンを使わない選択肢があってもいい。そのためには、町家が大きなヒントになると思っています」と言う。表側は古い建物で、奥に新しくホテルの居室部分を作っているが、「古い部分と新しい部分が突然切り替わるのでなく、中庭を作って路地を入っていくような気分を味わえるように設計しました」と魚谷さん。「歴史都市の建築をどんどん壊しているのは世界でも日本だけ。僕は、そうではなく、古いものの良さを残しつつ、次の時代につなげる工夫をしていきたい」と話している。
日本酒や仕出し料理…京都らしさをゆったり楽しむ
1781年創業の伏見の酒蔵、キンシ正宗社長の堀野恭史さんは、「この場所は私共の京都支店の後、イタリアンレストランと駐車場になっていました。立地も良いのでもともとホテルを建てようかとも考えていたところに、ちょうど東急不動産さんから話があり、タイミングがとても良かった」と笑顔で語る。宿泊者は、ホテルのラウンジでキンシ正宗が誇る日本酒の数々も無料で楽しむことができる(午後3時から午後9時まで)。「京都以外の方や、海外のお客さまにも、おいしい日本酒を知ってもらいたい。やわらかくてふくらみがあるのが伏見のお酒。日本酒離れが進んでいますが、何としても日本酒全体の底上げをはかっていきたい。そのためにも、ここを発信の場の一つとして活用できれば、と思っています」。オリジナルの町家がそのまま残されていることについては「京都らしい街並みということで町家を残していくことはとても大事なことです。このホテルは、『こここそが高級ホテルでございます』というような豪勢で偉そうな感じは全くなく、しっくりと街並みに溶け込んでいて、とても温かく、過ごしやすいと感じます。本当に良い形で残していただいた、と感謝しています」と話している。
「インバウンドで京都も海外のお客さまが増えていますが、おかげさまでホテルのお客さまも約7割が海外の方。観光するのに立地が良いからということだけでなく、日本建築らしいたたずまいに好感を持っていただいている方が多い。洗濯・乾燥機や電子レンジ、冷蔵庫、調理できるミニキッチンを備えていますので、1週間から10日間滞在するような長期滞在のお客さまからも好評です。また、大浴場はありませんが、各部屋の風呂はすべてヒバ作り。木の香りが心地よいと、これも評判です」と語るのは、nol kyoto sanjo支配人の北河督司さん。「ホテル内にレストランはありませんが、近隣の洋食店や和食店などと協力しています。いつも混んでいてなかなか食べられないものも仕出しとして取り寄せられるので、お客さまにも喜んでいただいています」。「ホテルでゆっくりとリラックスして過ごしたい、という方が多いようです。幸い、リピーターとして何度も利用していただくようになったお客さまも増えています」と北河さん。今後は「料亭とコラボレーションし、京の料理と、芸妓・舞妓の文化を楽しんでもらう企画も考えています。特に海外のお客さまが増えていますので、京都らしい文化に直に触れていただけるよう、さまざまな企画を用意したいと思っています」と話している。